「御香宮神社」と「御香水」

米を使った酒造りの始まりは明らかではありませんが、稲作が縄文時代に日本に伝わり、それが広まった弥生時代からとされています。
一升の酒に八升の水がいるといわれる酒づくり。中でも良質の豊富な水に恵まれることが、酒造地の条件といえます。
伏見は江戸時代から明治初頭まで『伏水』と表記されていたほどに、質の高い伏流水が豊富な地です。
桃山丘陵をくぐった清冽な水が水脈となって地下に深く息づき、山麓近くで湧き水となってあらわれます。
日本を代表する酒どころとなったのも、この天然の良水に恵まれていたことが大きな要因です。

そのすぐれた地下水の伝説をもつ御香宮神社。社伝によると、貞観4年(862)に境内からたいそう香りの良い水が湧出て、病人がこれを飲んだところたちまち回復したので、清和天皇から『御香水』の名を賜ったと伝えられています。 この名水は昭和60年(1985)に環境庁(当時)より『日本名水百選』に認定されました。
現在でも伏見の清酒メーカーは、『御香水』と同じ水脈の地下水を利用して酒造りを続けています。

  • 御香宮神社
    御香宮神社
  • 御香宮神社の御香水
    御香宮神社の御香水

時代における伏見の酒造りの変遷

古代

5世紀に最大の渡来氏族といわれた『秦人(はたびと)』が京都盆地に移住してきて、盆地の西側の太秦と、東の伏見の一帯にそれぞれ大きな拠点を築きました。 彼らは古くからこの地域に生活していた人々よりはるかに進歩した技術、たとえば、養蚕・織物・工芸・陶業・土木技術などをもたらし、そして酒造りの技法にも長じていました。 伏見ではこの頃から良質の酒が造られるようになったと想像されています。

安土桃山時代

豊臣秀吉は文禄3年(1594)に伏見城を築城しました。伏見は京都・大坂・奈良・近江の中継地にあたり、さらに木津川・宇治川・桂川・鴨川が流れ込み、水路、陸路ともに交通の要所でした。伏見城の造営後、全国各地から有名大名が集められ、また大名に呼び寄せられた商工業者により城下町が形成されました。水の豊かさも背景に酒造業が興隆しました。

江戸時代

慶長16年(1611)角倉了以が、二条木屋町から東九条で鴨川と合流する高瀬川運河を築き、さらに南へと水路を掘り進め竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより、京都中心部と大阪が水路で結ばれました。伏見は中継地として水上交通の要となり、港町・宿場町として発展しました。
こうした状況の下で、酒の需要も、酒造家の数も増加し、酒造免許にあたる『酒造株』がはじめて制定された明暦3年(1657)には、伏見の酒造家は83軒、その生産量は15,611石(2,800キロリッター)と国内有数の酒どころとなりました。
しかし、その後伏見では酒造りに対する制限が頻繁に出され、天保年間(1830-1843)には醸造石数は半減し、造り酒屋も1/3となりました。その間、幕府直轄の酒造地で海路が近い灘の酒が全盛となりました。

明治時代以降

明治10年(1877)西南の役が収まり、経済も安定しました。
明治22年(1889)には東海道線が全線開通し、伏見の酒もこれ以後、東京をはじめ各地へ鉄道によって出荷され、その名声は次第に全国へと広まっていきました。
明治39年(1906)には伏見酒の生産量は旧京都市内の酒を上回り、旧市内の酒造家も続々と伏見へ転出し、灘に次ぐ二大酒どころへと発展し、現在に至っています。

令和4年(2022)の京都府の清酒課税移出数量は76,371キロリッター(中央会調査)で、都道府県別では兵庫県に次いで全国第2位となっていますが、京都府で生産される清酒の大部分は伏見で造られています。

  • 明治30年頃 東海道線
    明治30年頃 東海道線
  • 初代京都駅
    初代京都駅