伏見の名水

「伏見」はかつて「伏水」(ふしみず)とも書かれていたほど、昔から良質で豊富な地下水に恵まれてきました。
今でも御香宮の境内にこんこんと湧き出る「御香水」(岩井の水)は、日本名水百選の一つに選ばれていますが、伏見には、この「岩井」と共に「白菊井」「春日井」「常磐井」「苔清水」「竹中清水」「田中清水」と呼ばれる「伏見七ツ井」の名水が豊富に湧出する所として古くから知られてきました。
また、山上一帯に伏見城を築いた太閤秀吉は、城内に「金名水」「銀名水」という名井を掘り当て、千利休らと茶の湯を楽しんだと言われています。

伏見の地下水「伏水」(ふしみず)は、酒造りに適した水で、鉄分が極めて少なく、カリウムやカルシウムを適度に含む中硬水であって、発酵もおだやかに進み、きめの細かい、伏見酒独特のまろやかな風味を醸し出す源となっています。

  • 「御香水」(岩井の水)
    「御香水」(岩井の水)
  • 板橋の白菊井
    板橋の白菊井
  • 常磐井(キンシ正宗)
    常磐井(キンシ正宗)

水を守る取り組み

昭和初期

伏見の酒造メーカーは、この地下水を守るため、伏見酒造組合としてたゆまぬ努力をしてきました。
昭和3年、桃山丘陵に地下鉄計画が持ち上がった時、伏見酒造組合は京都帝国大学地質学教室の松原厚教授に大規模な地下水脈の調査を依頼してきました。 この調査によって「地下鉄工事を強行すれば、伏見の醸造用の地下水は枯渇するであろう」との結論が出ました。
この科学的調査資料をたずさえ、大蔵省や陸軍省、電鉄会社などに熱心な陳情を展開し、ついにこれを高架軌道に変更してもらったという歴史があります。

近鉄(当時の奈良電鉄)高架下から、陸軍施設のあった伏見公園(道路右)、京都都市営桃陵団地(左)方面を望む。地下鉄を阻止し、伏見の地下水は危機を脱した。
月桂冠㈱HPより)

昭和中期

昭和30年代、日本の高度経済成長によって、伏見にも高層建築が次々と出現するようになり、再び地下水に対する不安が増大しました。
昭和35年、伏見酒造組合では「伏見地下水調査委員会」を組織し、京都学芸大学(現・京都教育大学)の川端博先生を中心として、広汎な地下水調査を再実施するに至りました。
その結果、伏見地区の地下水では、浅い層は桃山丘陵から南西方向に流れ、深い層は北及び北西から流入、南西方向へと流下することを確認すると共にきわめて多様性をもった地下水であることが明らかとなりました。

昭和後期

こうした結果をふまえ、昭和52年には「伏見地下水保存委員会」を発足させ、伏見の地下水を保全する活動を本格化し、 さらに、昭和54年、京都市に対し、「伏見区内での地下工事を伴う建設工事に際しては、必ず伏見酒造組合と相談するよう指導されたい」との要望書を提出しました。 これにより、伏見地区の地下工事では、設計者、施工者との協議を行い、鉄を露出させず、十分な防水効果を持つコンクリートなどで鉄を覆うよう、 また、必要があれば工法の変更までもお願いするなど、全面的な協力を得て今日に及んでいます。

伏見地区地下水調査委員会による『伏見地区・地下水調査報告書(1)』(1961年)川端先生を中心として大規模な調査を行った。
月桂冠㈱HPより)

平成

平成に入り、元京都大学防災研究所の奥西一夫教授を顧問に迎え、5年ごとに醸造用水に関する調査を実施、各蔵元の井戸の使用状況、揚水量、水質などを確認、 伏見の地下水の水質保全に努めてきました。
さらに、伏見地区を南北に貫通する新幹線道路・油小路通りの整備計画、「南部創造町づくりプラン」に基づく高速道路と地下鉄の新設計画、あるいは高層建築などによる地下水遮蔽という危惧に対してはさらに慎重な検討を要望しています。

最近では、平成21年に伏見地区において地下15mに合流式下水道の改善工事が着工されることとなったため、関西大学環境都市工学部の楠見教授(現・関西大学学長)に工事の地下水への影響の調査・研究を依頼しました。
この調査・研究は、地下水シミュレーションモデルを作成、3次元浸透流解析を行い、地下水流の挙動を把握することで、今後、地下水位の低下や水質に問題が生じた時の対策に役立てられるものとなっています。

現在もさらに詳しい地下水流の挙動を把握するため、楠見教授に継続して調査・研究を依頼しています。

  • 3次元シュミレーション
    3次元シュミレーション(関西大学楠見教授提供)
  • 伏見区域における浸透流解析結果(地下水位コンター図)
    伏見区域における浸透流解析結果(地下水位コンター図)

このような長年にわたる地道な努力によって、守り継がれてきた名水「伏水」は、銘酒「伏見の清酒」を醸す命の水であるだけではなく、地域の人々にとってもまたかけがえのない水資源であるといえます。